最近、憲法改正論議が世をにぎわせていますが、「憲法なんて遠い存在」「仕事やプライベートに忙しくて小難しいことにかまってられない」という方も、多いかもしれません。専門家ではない一般の方は、「法」に硬くて重たいイメージを持ちがちですし、「私たちを縛るきびしいルール」という面がありますから、ふだんなるべく関わりあいたくない、と思われるのもムリありません。
でも、「法」と名のつくものの中で、「憲法」だけは、ほかの法とはまったく違う性質を持っているということを、ご存じでしょうか。
それは、ふつうの法律は国民が「縛られる」ルールであるのに対し、憲法は、国民が「縛る」ためのルールである、というところです。
ではいったい、国民が誰を「縛る」のかというと、政府や国会議員、官僚といった、権力をもって国を取り仕切る人びとを縛る、ということになります。
「ヒトサマを縛るなんてそんな…」というつつましい声が聞こえてきそうです。実際、「憲法」はオカミが国民を縛るルールだと誤解している方も少なくないようです。
ですが、実は、「国の主人は国民だから、国民は国の運営を任せる人に縄をつけて、勝手ができないように縛らないといけない」というのが「国民主権」と「立憲主義」であり、その縛る道具が「憲法」なわけです。国は憲法というルールにのっとって運営しなければならず、王様や首相や大統領であっても、憲法で保障された国民の権利を害する法律を作ったり、憲法に定められたやり方に反して政治をしてはいけないことになっています。欧米先進国が現在おこなっている政治は、この考え方にのっとっており、今の日本も同じです。
憲法のはじまりは、13世紀イギリスの「マグナ・カルタ」にさかのぼります。王様の悪政をやめさせるため貴族たちがルールを突きつけて王様に守るよう約束させたものです。その後、フランス革命などで多くの血を流しながら、ヨーロッパの国々は、国民が政治を任せる人を選び、その相手がひどい政治をしないようにルールを課すというシステムを勝ちとってきたわけです。そして、第二次大戦の敗戦にともなって、そうしたシステムが日本にもたらされ今日に至っています。
欧米では、憲法は、時の政治家の勝手気ままによって国民の生活や自由を害されないよう、国民が政府につける縄という意識が高いですが、日本人にとっては自分で苦労して作ったわけではない輸入品なので、取り扱いに慣れていないところがありそうです。
「長いものには巻かれろ」という言葉もありますが、日本人はつつましいゆえか、どうも「オカミ」には「シバラレる」ものだと思ってしまい、「シバる」方は不得意なようです。
しかし、「シバラレ好き」になるのはキケンです。
19世紀イギリスの歴史家の言葉に、「権力は腐敗する」というのがあります。権力者というものがいつもよい政治を続けるのは難しくだめになりやすい、ということです。
また、中国の故事にも、「苛政は虎よりも猛し」というのがあります。ひどい政治は人食い虎よりおそろしい、という意味です。
こういった格言は、ヨーロッパも中国も政治で苦労した歴史があり、政治に対してきびしい目を持っている、ということの表れのように思います。そうした国は、国民がデモなどで政治的主張を行うことも多く、政府に対してSな国民性があるような気がします。
その点、日本人は「オカミ」を信頼していて、「ひどい目にあわされることはあるまい」と思いがちなのかもしれません。
しかし、日本も、約七十年前、軍国主義や、多くの犠牲者を出しての敗戦といった苦い歴史をあじわっています。
日本人はいま、「政治」という虎を縛る「憲法」という手綱を持っています。
縛られている方はきゅうくつですから、なんとかして縄をゆるめさせて自由になろうとしがちです。でも、それがもし人食い虎だったら、たいへんなことになるわけです。
民主主義国の国民としては、「シバラレ好き」にはなるべくならず、こと政治に対しては、「ちょいS」くらいがちょうどいいかも。そんなふうに思います。
(お知らせ)
札幌弁護士会では、中学校、高校などを対象に、弁護士が教室で授業を行う「憲法出前講座」をおこなっています。
「憲法ってなんだ?」「いま問題になっていることをわかりやすく教えて」といったご要望がありましたら、ぜひお気軽に弁護士会までご連絡ください。