執筆:大谷和広法律事務所
大谷 和広 弁護士
妻が結婚している間に妊娠した場合、生まれた子の父親は夫と推定されます。たとえば、妻が離婚し、別の男性と再婚後に、子を出産したとします。離婚から300日以内に生まれた場合、その子の父親は、今の夫でなく、前夫のほうだと推定されるのです(民法722条2項)。これを「300日問題」といい、思わぬ社会問題をひき起こしています。
数年前、『息もできない夏』というテレビドラマが話題となりました。菓子屋で働くお嬢さんが、正社員に登用されます。勤務先に戸籍を提出するため、役場に向かう主人公。ところが戸籍課の職員から「あなたの戸籍はどこにも存在しない」と告げられます。主人公は、無戸籍者だったのです。
主人公に戸籍がないのは、母親が出生の届出をしなかったためです。ここでドラマから離れ、出生届を提出できない事情を、母親側から見てみましょう。
たとえば、母親が前夫の暴力から逃げ続けたために、正式な離婚が遅れたケースがあります。母親は前夫と別居し、離婚の手続中に、今の夫と知り合いました。ただし出生の時には、すでに前夫と離婚し、子の実父と再婚しています。このようなケースで届出をためらうのは、300日問題が深く関係します。
母親が役場に出生届を提出した場合、子は誰の戸籍に入るでしょうか。子は前夫の戸籍に編入されます。離婚成立から300日が経過しておらず、前夫が父親と推定されるからです。
ではDNA鑑定書を提出したらどうか。実は、「前夫は生物学上の父親でない」という科学的な証明だけでは、戸籍の扱いは変わりません。母親が親子関係不存在の調停を起こし、審判などをえる必要があります。家庭裁判所の制度を利用して、ようやく、子を今の夫の戸籍に編入できるのです。
母親の立場で想像してください。戸籍課の職員から「家庭裁判所に行きなさい」と言われたら、何を思うでしょう。前夫は暴力的な人でした。「訴えたら仕返しされるのでは・・?」「親権を渡せとかムチャな要求をされるのでは・・?」「子まで付きまとわれるのでは・・?」。母親の不安は膨らむ一方です。
母親は、暴力のない平穏な生活を望んでいるだけです。しかし、子との小さな幸せを守りたいからこそ、出生届の提出というリスクを犯せない。その結果、子が戸籍を持てず、母親以上に苦しむこととなるのです。
母も子も、家庭内暴力、いわばゆがんだ父権の被害者です。しかし被害の実数は正確に把握されておらず、救済措置も不十分です。「父親の推定」という父権的な制度のはざまで苦しむ被害者をどうケアするか、悩ましい問題です。
以上